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5月4日更新 ハレスビー みことばの糧 5/4~5/15まで


五月4日

 「しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を獲得する者です。」                      
       ヘブライ10章39      
 聖書によれば、「信仰」とは、神にたいする魂の正しい正常な関係を意味します。
 「信じる」とはどういうことでしょうか。それは神について広く思索をするとか、自分の考えに従って神概念をつくりあげることではありません。神について思いめぐらすとか、神を定義することではありません。神を慕い求めることでもありません。
 信じるとは、神を信じさせていただくことです。
 ここで、聖書において「信仰」の用語を見てみましょう。ギリシャ語の「ピスティス」とか、ヘブル語の「エムナ」は「確信させられる」という意味で、信仰の起源と関係して用いられます。
 信仰とは、魂の働きでなく、魂の応答なのです。人が神と出会った結果です。信仰とは神にたいする人間の正しい応答です。神が語りかける迄、人間は応答することができません。信仰を生じさせるのは神です。人間に出会うことにより、神は信仰を生じさせます。神は愛です。信仰を創造するのは神のみ旨です。そうせざるを得ないのです。神はご自分を私たちに知らせ、その結果、確信が生じます。
 神は自己紹介の必要もなければ、推薦者も必要としません。ただ、わたしたちに出会われ、その時、私たちのすべては、神にお会いしているということを体験します。そしてそれが神であるということだけでなく、どのようなお方であるかということも知るのです。神は、絶対的で、聖く、完全なお方です。
 それと同時に、私たちは、自分の真実の姿を知ります。それは、汚れた罪深い存在です。私たちは絶えず神に敵対しながら生活していることが判ります。
 神とお会いして、神の語りかけを聞く時、神と自分の真実な姿を知るだけではありません。そこでは応答が求められます。自分の責任で答えなければなりません。そして、選択は二つだけです。「ひるんで滅びるか、信仰によって命を確保するか」です。ひるまない人とは、イエスの静かな声によって確信を与えられ、キリストの十字架のみ下にひれ伏す人のことです。そこで、罪人にたいする神のすばらしいメッセージを聞き、信じるのです。

五月5日

 「もしひるむようなことがあれば、
  その者はわたしの心に適わない。」                      
       ヘブライ10章38   
 神が罪人に語りかけられる時に、二つの選択があることが判りました。一方は、恵み深い招きに応答し、他方は、ひるんで拒絶します。神の招きのメッセージを拒否するには、いくつかのタイプがあります。
 ある人は早速、完全に拒否します。
 彼らは、自分がどれほど利己的であり、罪深い生活を送っているかを神に示された時、深く感動します。そしてまた、罪赦された生活がどれほど幸せで喜ばしく、良い良心をもって生きるかも垣間見ます。愛と純潔と、喜んで犠牲を払う生活です。しかしすばらしいということが判っても、毎日、犠牲を払い、自己否定が伴うことには耐えられません。それはあまりにも大きな負担です。その結果、ひるむことになり、せっかくできた神との交わりを断ち切ります。
 もうひとつのタイプは、より複雑なやり方でひるみます。
 彼らは敬虔なタイプです。永遠の見えない生命を経験し、魂にふれる永遠の生命のゆたかさに感激します。感受性に富んだ魂は、天国のメロディーは地上の最高の音楽であることを発見します。どこででもそれを探し求めようとします。神の造られた自然の世界において、あるいは教会の中の静けさや荘厳さのうちにそれを求めます。教会音楽に強く感動し、聖餐典の奥義に心動かされます。
 しかし彼らはそれ以上に進みません。敬虔な宗教心は持ちますが、良心に迄到達しません。
 神が彼らの良心にふれるたびに、ひるむのです。できれば何かの弁解をして避けたいのです。生ける神が語りかける時に、ひるむことは重大な結果を招きます。聖書は「ひるんで滅びる者」と言っています。神の直接の語りかけを聞いてひるむ者は、聖なる確信を裏切る者です。自分自身の魂を傷つけて、滅びに至るのです。

五月6日

 「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。」                      
          ヨハネ16章8    
 イエスに弟子たちにとって、群集がイエスをメシヤと認めることをせず反対に十字架につけてしまったことは大変な失望でした。
 そこでイエスは前もって、聖霊が送られて世の誤りを明らかにすると予告されました。聖霊が下る時、この世はイエスがキリストであることを認めます。
 イエスに従う人にとっては、いつもこの真理によって慰められる必要があります。
 今日、残念なことに、イエス・キリストを信じない人たちがたくさんいます。疑い、不信仰、背信が満ちています。教会やキリスト教への無関心がどこにも見られます。街も田舎も同様です。近所の人もそうです。彼らは普段は善良で親切ですが、キリスト教信仰には冷淡です。
 それが自分の家族になると、もっと大変です。信仰に関することに全く無関心であり、時には明白な不快感を表します。それで、両親は全く不安になります。
 こうした状況において、今日のみことばは慰めになります。「その方が来れば、罪について世の誤りを明らかにする」。聖霊は絶えず連続的に働いておられます。子供たちには、子供に判るように単純にキリストを示し、また、彼らの良心に罪を示されます。
 若い人も同じです。他の人が気付かない静かな方法で語りかけられます。どのようにして彼らに罪を示されるのでしょうか。しばしば彼らは無関心に見えます。キリスト教とクリスチャンに反感すらいだいているように見えます。それにもかかわらず、深いところで罪についての示しがあります。見えない所で魂は神を慕い求め、「ああ、神との平和をもてたらナァ」とため息をつくのです。
 神が若い魂の中ではじめてくださったよいわざを聖霊が完成してくださるように祈ろうではありませんか。

五月7日

 「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。」                      
              ヨハネ16章8    
 イエスは、やがて、聖霊が下って世の誤りを明らかにすると言われました。ここで注意すべきは、義についてだけでなく、罪についても、裁きについても世の誤りを明らかにすると言われていることです。
 ここには救についての非常に重要な真理が示されています。キリストはこの世にこられて、人々に救を得るように強制されませんでした。シメオンは母親のマリアに言っています。「この子はイスラエルの多くの人を倒したり立ち上らせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています」(ルカ二章三四)。
 また、パウロも福音は「滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです」(コリント第二・二章一六)と言っています。
 「誤りを明らかにする」のは聖霊の働きです。
 聖霊は、誤りのない方法でイエスに導きます。聖霊は、だれかをおどかして神の国に入れることはしません。ましてや強制することはありません。
 ただ誤りを明らかにされるだけです。聖霊によって、罪と恵みについての考え方の誤りを明らかにすることによって、永遠の滅びにおちいることを防がれるのです。
 そして誤りを明らかにされると、それから、自分で考え、語り、待ち、望み、慕い求めるのです。ある人々はそれだけでなく、神が強制的に信仰に入れるのではないかと期待します。しかし、神は聖霊によって「誤りを明らかにする」以上のことをされません。神の霊が働いて、誤りを明らかに示され、それに従わなければ、それ以外に救われる道はないのです。
五月8日

 「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちはいつも
 わたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。」                      
        マタイ18章10    
 私たちにとって信じられないような「小さな者」への福音があります。子供たちのひとりひとりに、どこに行っても、いっしょに行ってくれる天使がいるとイエスは言っておられるのです。天使を見ることができません。神が目に見えないお方であるように、天使も目に見えない存在です。しかし天使は子供を見ています。暗い時も、明るい時も見ているのです。
 子供たちよ。ひとりの時、または、おそろしい時にこの福音を思いおこしましょう。天使がどこでもいっしょに行かれますから、たとえ、ひとりであっても、おそろしくても安全です。
 このような天使をつかわしてくださる神に感謝しましょう。天の父なる神は、子供たちのひとりひとりに天使をつけるほどたくさんおくってくださるのです。
 子供たちが犬に噛みつかれようとしたり、悪い人につかまえられようとした時に、天使は守られます。それだけではなく、子供たちが悪いことに誘惑される時にも守られます。子供たちも、おこったり、ふくれたり、悪口を言ったり、学校をさぼったり、うそをついたり、両親を悲しませたり、間違った考えをしたりします。サタンは子供にささやいて、そんなことは大したことではないと誘惑します。
 ところが天使も働きます。「あなたは誘惑におちいってはいけません。それは明らかに罪です」と良心に語りかけます。それでも悪いことをしつづけるならば天使は悲しみます。そして、天国に帰ります。イエスはそれを見て、「どうして悲しんでいるのか」と尋ねられます。天使が子供の悪事についてイエスに報告すると、それを聞いてイエスも悲しまれます。
 それから天使はどうするでしょうか。天使はもう一度子供のところにきて、その心に、「イエスさまが悲しんでおられるよ」と告げます。「すぐイエスさまのところに行って、赦してもらいなさい。そうすればすぐ、すべての罪をぬぐいとってくださるよ」。子供がそうすれば、イエスも子供も、もう一度、しあわせになるのです。

五月9日

 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとにきなさい。休ませてあげよう。」                      
          マタイ11章28    
 多くのクリスチャンたちは疲れています。重荷は重く、悩みは多く、不安で、不安定です。彼らの心はこの世の思い煩いでいっぱいで、心は沈み、絶望的です。毎日の生活で、神にほまれを帰すことはありません。成長し、進歩するよりも、八方塞がりです。時には死んでしまいたいと思うほど疲れます。自分と、自己中心的な生き方に嫌気がさしているのです。ところがイエスは言われます。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとにきなさい。休ませてあげよう」。
 どうして神の子であるクリスチャンがイエスのもとに行き、休みを得なければならないのでしょうか。
 それは「世の悲しみ」が私たちを苦しめているからです。それは、弱さと愚かさと罪がいっしょになってきたらせる悲しみです。それは神に敵対することに原因する悲しみです。毎日の生活にはこのような悲しみが満ち満ちています。それは古い人のもつ高ぶりの心から生じます。
 一方、罪にたいしての悔改めの悲しみは、たんなる悩みでなく、心をくだき、けんそんにします。私自身にとっても、毎日の生活においても、自分を低くさせるようなできごとをそのまま受け入れます。私たちの邪悪さを神のみ霊が指摘する時に、それに従います。そうした場合に、驚いたり、困惑したり、どうしてよいか判らなくなるのではなく、罪を指摘してくださった恵みの神のみ前に、沈黙し、それから感謝するのです。
 それから救は、滅びゆく者に与えられ、医者は健康人ではなく、病人のためにきてくださったことに感謝するのです。
 その時、疲れた魂はもう一度休みをえます。
 今や、魂は神の大能のみ手の下に安らぎを得ます。自分自身のうちには神のみ前に立つにふさわしいものは何もないことを認めています。恵みの岩のもとに魂は平安です。身代りとなってくださったイエス・キリストの十字架を仰ぎ、そうしてくださった父なる神をほめたたえ、感謝するのです。

五月10日

 「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわた
 しの声を聞き分ける。こうして羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」                      
       ヨハネ10章16    
 イエスは、「ほかの羊」ということばで、異邦人の救について言及しておられます。
 イエスがこの世に来られた時、その働きはイスラエルの失われた羊たちに限られていました。しかし、イエスはしばしば、異邦人について語られています。やがてイエスの限られたけんそんの生涯が終る時、もう一度来て、すべての失われた羊たちを救う喜びについて語られているのです。ヨハネ一○章一六でも、異邦人が救われる日のことをおぼえて喜びに溢れると言われているのです。「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」(ヨハネ一二章三二)。それはイエスが十字架につけられる数日前に、何人かのギリシア人がやってきて、神の国の扉をノックした時のことでした。
 イエスは復活後、天に昇られる時、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(マタイ二八章一九)と命じられました。何年かは、このことばの意味は隠されていました。イエスの弟子たちは、最初、ユダヤ人の間でだけ働いていました。しかしパウロの登場によって、すべては変化したのです。
 福音はユダヤ人たちによって、ローマに伝えられました。ローマ人は、他の民族に福音を伝えました。こうして、何百年も後には、イギリスにまで伝えられるようになったのです。そして、イギリスから、イエスの福音は、このノルウェーにも伝えられました。ノルウェー全土にまで、福音があますことなく、正しく伝えられてきたことを心から神に感謝したいと思います。そしてノルウェーのクリスチャンたちは、イエスの福音を受けいれた後、今度は、彼らがやみと死の谷に住む人々に福音を伝えるようにと召されたのです。今日、ノルウェーのクリスチャンたちが全世界にでて行って福音を伝える番がきたのです。
 もし、私たちが今日、宣教事業のためにもっと努力しないならば、全世界の人々が福音を聞くためには、もう三百年かかるにちがいありません。 

五月11日

 「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようにな
 る。」                      
             ヨハネ7章38     
 「わたしを信じる者は、その人の内から生きた水が川となって流れでる」と言われていますが、あなたはそのとおりでしょうか。
 いや、私の魂は、なえて、乾いていると答えるかもしれません。私のうちには泉もなく、生きた水が川となって流れ出ることもない。
 しかしイエスは言われます。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」(ヨハネ七章三七)。
 そう言われても、私の魂は渇いていないのだ。私の心は世俗的で、この世のことで一杯だ。しかも悪いことに、私はそれをどうすることもできない。
 たしかにそのとおりです。しかし、じつは昔のクリスチャンたちも同じように感じていたことは、つぎの歌からも知ることができます。

 主イエスよ、
 わたしがこれほど冷淡で、
 霊的に死んでいることこそ
 問題なのです。

 神への乾きをこのようにしか表現できないことを認識することは難しいことです。しかし、霊的な現実は、まさにそのとおりであることを知らねばなりません。私たちが朝、食べた食物は、夕方までもちません。すべての生命はそのままではなえてしまうので、絶えず新しくしなければなりません。それは当り前のことです。ですから、この世的で、なんの霊的資格のないままで、イエスのところに行こうではありませんか。このイエスのうちに、すべては満ち満ちているのです。このイエスのところに行けば、あなたと、とりまくすべてのものから、生きた水が川となって流れ出るのです。
 私は、神に仕えることも、人々に仕えることもできていないと、あなたは嘆くかもしれません。しかしそれは間違った考えです。自分が考えているよりもはるかに大きなことができます。それは生けるキリストがあなたの内でなさることです。毎日、けんそんで、真実で、感謝と喜びに溢れるクリスチャンとして生活することは、そのような生活そのものが砂漠のようなこの世にたいする生きた水として川のように流れだしているのです。最大の奉仕は「祈り」です。祈りつつこの世を歩もうではありませんか。そうすれば思いにまさる方法でもの事は変化してゆきます。そして、あなたが天に召されたずっと後で多くの実がみのるのです。

五月12日

 「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの
 父に祈りなさい。そうすれば隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」                      
          マタイ6章6    
 多くのクリスチャンたちは、魂を養うことをいいかげんに考えています。「時間があれば」聖書を読み、お祈りをしようと考えています。サタンは、結局、時間ができないことを見抜いています。
 朝起きると、もう少し寝ていたいなとベッドに横たわっています。そのうちに今日一日のいろんな仕事が思いに浮かんできます。お祈りはもう少しあとにしようと考えます。
 お昼になると、もう仕事が山積しています。その時は、魂を養う必要など念頭から消えてしまっているかもしれません。
 夕方になると、もうすっかり疲れてしまってベッドに入ってしまうので結局祈ることはなくなってしまいます。
 聖書を読んだり祈る時間は自然にでてくるものではありません。祈るためには時間をつくらなければならないのです。日常のスケジュールをやりくりして、そのための時間をつくらねばならないのです。朝は早く起きて、主のみ前に静まって祈るのに十分な時間をとらなければなりません。それによって、一日の仕事と、戦いと、誘惑と、悩みに十分なそなえができるためです。主のみ前に静まって一日を始める人は、一日をしっかりとやり抜く恵みを受けます。それによって、主の平安による安定性を維持することのできる力を与えられます。
 私たちは、身体のために健康維持の必要性を認めています。そのためには規則正しい健康維持に努めます。一日に三度食事をすることを忘れることはありません。
 ところが魂の健康維持についてはどうでしょうか。それをやってみると、自分の内におこる変化に驚きます。祝福された生き生きとした人生を送るためには、何か魔術的な方法は不必要なのです。
 恵みの手段である聖書と祈りを規則正しく単純に用いることは、主が約束された豊かないのちを真剣な魂に供給します。
 すべての霊的ななまけぐせを捨て、神によって定められた聖なる恵みの手段を規則正しく用いて、霊的な魂のためにたしかな栄養を受けようではありませんか。
 パウロも「神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです」(第一コリント一四章三二)と言っています。

五月13日

 「わたしは、高く、聖なる所に住み
 打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にある。」                      
                 イザヤ57章15    
 主は、打ち砕かれて、へりくだった霊の人と共におられます。その人の心の内に住まれます。私たちは自分の住む所を家庭と呼びます。主は、打ち砕かれて、へりくだる霊のうちに、ちょうど家庭にいるようにして、住まれるのです。このような人についてイエスは言われています。「心の貧しい人々は、幸いである」「悲しむ人々は、幸いである」「義に飢え渇く人々は、幸いである」(マタイ五章三、四、六)。
 多くのクリスチャンたちは、この美しい山上の説教のテキストを読んで溜息をつきます。なぜなら、これを読むと良心が痛むからです。彼らの心は義に飢え渇いていません。心は悲しむことなく、冷淡で無関心ですから、神の恵みやあわれみを必要としないのです。
 こうした場合、信仰をもちつづけることは難しいことです。
 しかしここで、もう一度「打ち砕かれて、へりくだる霊」の意味について考え直してみましょう。いったい、心の中で、どんなことが起こっているのでしょうか。
 ある人がガラス瓶を力一杯床に投げつけたとします。ガラス瓶は粉々に砕けました。もう一度、そのガラス瓶にすることは不可能です。
 神が「打ち砕かれた」心と言われているのも同様です。あなたの信仰も、愛も、あなたの悔恨も、悲しみも、あなたの祈りも聖書朗読も、あなたの犠牲も自己否定も、いっさいは打ち砕かれて粉々になりました。そこで呆然として坐っているだけです。すべては絶望的です。
 その時、あなたの心を打ち砕かれたのは神ご自身であることを思い出してください。それは神が心の内に住まれるためです。
 私たちが心砕かれた時、神の恵みを信じるのに最善の方法を神がとられたことを感謝しましょう。心砕くことによってのみ、神は私たちの内に住まれるようになったのです。そして、神は何度もそうなさるのです。

五月14日

 「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けにな
 る。」                      
               ヨハネ14章13    
 今日のテキストでは、祈りの目的が明白に書かれています。すなわち、神のみ名があがめられることです。
 私たちが祈るのは、自分と家族が苦しみと悩みから逃れ、何らかの御利益を受けるためであることが多いのです。そのため、祈りの生活は失望におちいります。多くの成就されない祈りがあまりにも多いからです。
 私たちは祈りを間違って用いています。祈りの本来の目的と反対のことを祈っているのです。「願い求めても与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです」(ヤコブ四章三)。
 もし私たちが神のみ名があがめられることを最終目的として祈るならば、たとえ私たち自身の祈りは弱くささやかであっても、みことばによる強い確かな約束を得るのです。
 あなたは「わたしはそのとおりに祈っています。どんなことでも神に祈っています」と言うかもしれません。「わたしは日常生活のあんまり小さいことまで祈っているのが、どうも間違っているのではないでしょうか」。
 そうです。そのとおりでよいのです。ほんとうは、神との毎日の交わりの中で、もっと単純に祈るべきなのです。「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」(フィリピ四章六)。あなたの日常生活の中で、ささいすぎるために主が祈りを聞かれないような願いは何ひとつないのです。
 そして祈りの最終目的は神のみ名に栄光を帰すことであることをいつもおぼえましょう。大きな願いごとであれ、小さな願いごとであれ、「もしあなたのみ名があがめられるならば、この願いを聞いて助けてください」と祈ろうではありませんか。「しかしもし、み名があがめられないとすれば、このままでけっこうです。そしてこの悩みの中でもあなたに栄光を帰すための力を与えてください」と祈ろうではありませんか。

五月15日

 「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を
 話せるようにしてくださる。」                      
                マルコ7章37    
 このテキストは、救主イエスのなさったすばらしいみわざについて記録しています。
 第一にイエスは耳の聞こえない人を聞こえるようになさいました。これは、私の個人的な信仰生活をふり返ってみても最大の奇蹟であると思われます。ある時、神は、私の耳を開いて聞こえるようにしてくださったのです。私の軽薄な魂が、神のことばを聞いておののくようになったのです。
 私の耳を開いて、惜しみのない恵みの福音を聞いて、心からの感謝の歌を他の救われた人たちと共にうたうようにされました。「神はすべてのよいことをしてくださった。」
 その時からまた、神は同じような奇蹟をなさいました。私たちの耳はまた閉ざされ、律法も福音も聞いても判らず、慣れきった宗教性の中で空虚で不幸な日々を送るようになったのでした。その時、イエスは、かつての日に耳の聞こえない人にされたように、ひとりだけ群集の中から連れ出し、「エッファタ」と力強くおっしゃったのです。その時、もう一度、聞こえるようになり、心は喜びおどりました。「耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる」のです。私たちの耳が聞こえなければ、その間口も利けません。救主イエスにむかって、ひとことも言えません。しかし、主のことばが聞こえるようになると、同時に、話しはじめるのです。もう黙っていることは不可能です。
 このようにして、主イエスは福音の証人たちを起こされます。それは有能な説教者ばかりではありません。ひと前で話すことは下手であっても、日常生活の中でイエスのことについて話さざるを得ない人たちです。
 しかしまた、全く沈黙してしまう人たちがたくさんいます。彼らは、すべてをうまくされるのは主イエスであるということが見えなくなってしまうのです。そうした時、もう一度主ご自身が耳を聞こえるようにし、口を利けるようにしてくださったことを思い出しましょう。そうすれば、再び、語り出し、あかしもせざるを得なくなります。