聖書 お得インフォメーション

詩篇を味わう会(毎月第三土曜日)

attention!!

**次回は5月・第三土曜日17日です

次回は2008年5月17日(土曜日)

講師は飛鷹美奈子先生です! 詩篇119篇をします

時間:午後2時から3:30(ティータイムあり・無料)

**毎月第三土曜日

場所:サンビルダー北野2番館1階チャペル

神戸YMCAと「グリーンヒルホテル神戸」との間

**地図をクリックしてください。

どなたでも参加できます。

2.ハレスビーの「みことばの糧」が第3刷となりました。

3.ウェストミンスター物語発売中

キリスト教書店・三宮

神戸カペナンター書店

ジュンク堂神戸三宮支店・キリスト教のコーナーにあります。

神戸バイブルハウスでも販売しています。

**韓国語版 ウェストミンスター物語ができあがりました。**

4.聖地旅行の感想はこのホームページの「きらくにね」をごらんください。

5月6月の礼拝(毎日曜日午後2時から

6/ 1 説教者:鍋谷師 聖餐式

6/ 8 説教者:角川周治郎師

6/15 説教者:鍋谷師

6/22  説教者 武川牧師 垂水ゴスペルキリスト教会

6/29  説教者:武川牧師 垂水ゴスペルキリスト教会

5/4  説教者:鍋谷牧師 聖餐式

5/11  説教者:角川周治郎師

5/18 説教者:橋本昭夫先生(神学校日)

5/25 説教者:鍋谷師

5月4日更新 ハレスビー みことばの糧 5/4~5/15まで


五月4日

 「しかし、わたしたちは、ひるんで滅びる者ではなく、信仰によって命を獲得する者です。」                      
       ヘブライ10章39      
 聖書によれば、「信仰」とは、神にたいする魂の正しい正常な関係を意味します。
 「信じる」とはどういうことでしょうか。それは神について広く思索をするとか、自分の考えに従って神概念をつくりあげることではありません。神について思いめぐらすとか、神を定義することではありません。神を慕い求めることでもありません。
 信じるとは、神を信じさせていただくことです。
 ここで、聖書において「信仰」の用語を見てみましょう。ギリシャ語の「ピスティス」とか、ヘブル語の「エムナ」は「確信させられる」という意味で、信仰の起源と関係して用いられます。
 信仰とは、魂の働きでなく、魂の応答なのです。人が神と出会った結果です。信仰とは神にたいする人間の正しい応答です。神が語りかける迄、人間は応答することができません。信仰を生じさせるのは神です。人間に出会うことにより、神は信仰を生じさせます。神は愛です。信仰を創造するのは神のみ旨です。そうせざるを得ないのです。神はご自分を私たちに知らせ、その結果、確信が生じます。
 神は自己紹介の必要もなければ、推薦者も必要としません。ただ、わたしたちに出会われ、その時、私たちのすべては、神にお会いしているということを体験します。そしてそれが神であるということだけでなく、どのようなお方であるかということも知るのです。神は、絶対的で、聖く、完全なお方です。
 それと同時に、私たちは、自分の真実の姿を知ります。それは、汚れた罪深い存在です。私たちは絶えず神に敵対しながら生活していることが判ります。
 神とお会いして、神の語りかけを聞く時、神と自分の真実な姿を知るだけではありません。そこでは応答が求められます。自分の責任で答えなければなりません。そして、選択は二つだけです。「ひるんで滅びるか、信仰によって命を確保するか」です。ひるまない人とは、イエスの静かな声によって確信を与えられ、キリストの十字架のみ下にひれ伏す人のことです。そこで、罪人にたいする神のすばらしいメッセージを聞き、信じるのです。

五月5日

 「もしひるむようなことがあれば、
  その者はわたしの心に適わない。」                      
       ヘブライ10章38   
 神が罪人に語りかけられる時に、二つの選択があることが判りました。一方は、恵み深い招きに応答し、他方は、ひるんで拒絶します。神の招きのメッセージを拒否するには、いくつかのタイプがあります。
 ある人は早速、完全に拒否します。
 彼らは、自分がどれほど利己的であり、罪深い生活を送っているかを神に示された時、深く感動します。そしてまた、罪赦された生活がどれほど幸せで喜ばしく、良い良心をもって生きるかも垣間見ます。愛と純潔と、喜んで犠牲を払う生活です。しかしすばらしいということが判っても、毎日、犠牲を払い、自己否定が伴うことには耐えられません。それはあまりにも大きな負担です。その結果、ひるむことになり、せっかくできた神との交わりを断ち切ります。
 もうひとつのタイプは、より複雑なやり方でひるみます。
 彼らは敬虔なタイプです。永遠の見えない生命を経験し、魂にふれる永遠の生命のゆたかさに感激します。感受性に富んだ魂は、天国のメロディーは地上の最高の音楽であることを発見します。どこででもそれを探し求めようとします。神の造られた自然の世界において、あるいは教会の中の静けさや荘厳さのうちにそれを求めます。教会音楽に強く感動し、聖餐典の奥義に心動かされます。
 しかし彼らはそれ以上に進みません。敬虔な宗教心は持ちますが、良心に迄到達しません。
 神が彼らの良心にふれるたびに、ひるむのです。できれば何かの弁解をして避けたいのです。生ける神が語りかける時に、ひるむことは重大な結果を招きます。聖書は「ひるんで滅びる者」と言っています。神の直接の語りかけを聞いてひるむ者は、聖なる確信を裏切る者です。自分自身の魂を傷つけて、滅びに至るのです。

五月6日

 「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。」                      
          ヨハネ16章8    
 イエスに弟子たちにとって、群集がイエスをメシヤと認めることをせず反対に十字架につけてしまったことは大変な失望でした。
 そこでイエスは前もって、聖霊が送られて世の誤りを明らかにすると予告されました。聖霊が下る時、この世はイエスがキリストであることを認めます。
 イエスに従う人にとっては、いつもこの真理によって慰められる必要があります。
 今日、残念なことに、イエス・キリストを信じない人たちがたくさんいます。疑い、不信仰、背信が満ちています。教会やキリスト教への無関心がどこにも見られます。街も田舎も同様です。近所の人もそうです。彼らは普段は善良で親切ですが、キリスト教信仰には冷淡です。
 それが自分の家族になると、もっと大変です。信仰に関することに全く無関心であり、時には明白な不快感を表します。それで、両親は全く不安になります。
 こうした状況において、今日のみことばは慰めになります。「その方が来れば、罪について世の誤りを明らかにする」。聖霊は絶えず連続的に働いておられます。子供たちには、子供に判るように単純にキリストを示し、また、彼らの良心に罪を示されます。
 若い人も同じです。他の人が気付かない静かな方法で語りかけられます。どのようにして彼らに罪を示されるのでしょうか。しばしば彼らは無関心に見えます。キリスト教とクリスチャンに反感すらいだいているように見えます。それにもかかわらず、深いところで罪についての示しがあります。見えない所で魂は神を慕い求め、「ああ、神との平和をもてたらナァ」とため息をつくのです。
 神が若い魂の中ではじめてくださったよいわざを聖霊が完成してくださるように祈ろうではありませんか。

五月7日

 「その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。」                      
              ヨハネ16章8    
 イエスは、やがて、聖霊が下って世の誤りを明らかにすると言われました。ここで注意すべきは、義についてだけでなく、罪についても、裁きについても世の誤りを明らかにすると言われていることです。
 ここには救についての非常に重要な真理が示されています。キリストはこの世にこられて、人々に救を得るように強制されませんでした。シメオンは母親のマリアに言っています。「この子はイスラエルの多くの人を倒したり立ち上らせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています」(ルカ二章三四)。
 また、パウロも福音は「滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです」(コリント第二・二章一六)と言っています。
 「誤りを明らかにする」のは聖霊の働きです。
 聖霊は、誤りのない方法でイエスに導きます。聖霊は、だれかをおどかして神の国に入れることはしません。ましてや強制することはありません。
 ただ誤りを明らかにされるだけです。聖霊によって、罪と恵みについての考え方の誤りを明らかにすることによって、永遠の滅びにおちいることを防がれるのです。
 そして誤りを明らかにされると、それから、自分で考え、語り、待ち、望み、慕い求めるのです。ある人々はそれだけでなく、神が強制的に信仰に入れるのではないかと期待します。しかし、神は聖霊によって「誤りを明らかにする」以上のことをされません。神の霊が働いて、誤りを明らかに示され、それに従わなければ、それ以外に救われる道はないのです。
五月8日

 「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちはいつも
 わたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。」                      
        マタイ18章10    
 私たちにとって信じられないような「小さな者」への福音があります。子供たちのひとりひとりに、どこに行っても、いっしょに行ってくれる天使がいるとイエスは言っておられるのです。天使を見ることができません。神が目に見えないお方であるように、天使も目に見えない存在です。しかし天使は子供を見ています。暗い時も、明るい時も見ているのです。
 子供たちよ。ひとりの時、または、おそろしい時にこの福音を思いおこしましょう。天使がどこでもいっしょに行かれますから、たとえ、ひとりであっても、おそろしくても安全です。
 このような天使をつかわしてくださる神に感謝しましょう。天の父なる神は、子供たちのひとりひとりに天使をつけるほどたくさんおくってくださるのです。
 子供たちが犬に噛みつかれようとしたり、悪い人につかまえられようとした時に、天使は守られます。それだけではなく、子供たちが悪いことに誘惑される時にも守られます。子供たちも、おこったり、ふくれたり、悪口を言ったり、学校をさぼったり、うそをついたり、両親を悲しませたり、間違った考えをしたりします。サタンは子供にささやいて、そんなことは大したことではないと誘惑します。
 ところが天使も働きます。「あなたは誘惑におちいってはいけません。それは明らかに罪です」と良心に語りかけます。それでも悪いことをしつづけるならば天使は悲しみます。そして、天国に帰ります。イエスはそれを見て、「どうして悲しんでいるのか」と尋ねられます。天使が子供の悪事についてイエスに報告すると、それを聞いてイエスも悲しまれます。
 それから天使はどうするでしょうか。天使はもう一度子供のところにきて、その心に、「イエスさまが悲しんでおられるよ」と告げます。「すぐイエスさまのところに行って、赦してもらいなさい。そうすればすぐ、すべての罪をぬぐいとってくださるよ」。子供がそうすれば、イエスも子供も、もう一度、しあわせになるのです。

五月9日

 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとにきなさい。休ませてあげよう。」                      
          マタイ11章28    
 多くのクリスチャンたちは疲れています。重荷は重く、悩みは多く、不安で、不安定です。彼らの心はこの世の思い煩いでいっぱいで、心は沈み、絶望的です。毎日の生活で、神にほまれを帰すことはありません。成長し、進歩するよりも、八方塞がりです。時には死んでしまいたいと思うほど疲れます。自分と、自己中心的な生き方に嫌気がさしているのです。ところがイエスは言われます。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとにきなさい。休ませてあげよう」。
 どうして神の子であるクリスチャンがイエスのもとに行き、休みを得なければならないのでしょうか。
 それは「世の悲しみ」が私たちを苦しめているからです。それは、弱さと愚かさと罪がいっしょになってきたらせる悲しみです。それは神に敵対することに原因する悲しみです。毎日の生活にはこのような悲しみが満ち満ちています。それは古い人のもつ高ぶりの心から生じます。
 一方、罪にたいしての悔改めの悲しみは、たんなる悩みでなく、心をくだき、けんそんにします。私自身にとっても、毎日の生活においても、自分を低くさせるようなできごとをそのまま受け入れます。私たちの邪悪さを神のみ霊が指摘する時に、それに従います。そうした場合に、驚いたり、困惑したり、どうしてよいか判らなくなるのではなく、罪を指摘してくださった恵みの神のみ前に、沈黙し、それから感謝するのです。
 それから救は、滅びゆく者に与えられ、医者は健康人ではなく、病人のためにきてくださったことに感謝するのです。
 その時、疲れた魂はもう一度休みをえます。
 今や、魂は神の大能のみ手の下に安らぎを得ます。自分自身のうちには神のみ前に立つにふさわしいものは何もないことを認めています。恵みの岩のもとに魂は平安です。身代りとなってくださったイエス・キリストの十字架を仰ぎ、そうしてくださった父なる神をほめたたえ、感謝するのです。

五月10日

 「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわた
 しの声を聞き分ける。こうして羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」                      
       ヨハネ10章16    
 イエスは、「ほかの羊」ということばで、異邦人の救について言及しておられます。
 イエスがこの世に来られた時、その働きはイスラエルの失われた羊たちに限られていました。しかし、イエスはしばしば、異邦人について語られています。やがてイエスの限られたけんそんの生涯が終る時、もう一度来て、すべての失われた羊たちを救う喜びについて語られているのです。ヨハネ一○章一六でも、異邦人が救われる日のことをおぼえて喜びに溢れると言われているのです。「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」(ヨハネ一二章三二)。それはイエスが十字架につけられる数日前に、何人かのギリシア人がやってきて、神の国の扉をノックした時のことでした。
 イエスは復活後、天に昇られる時、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(マタイ二八章一九)と命じられました。何年かは、このことばの意味は隠されていました。イエスの弟子たちは、最初、ユダヤ人の間でだけ働いていました。しかしパウロの登場によって、すべては変化したのです。
 福音はユダヤ人たちによって、ローマに伝えられました。ローマ人は、他の民族に福音を伝えました。こうして、何百年も後には、イギリスにまで伝えられるようになったのです。そして、イギリスから、イエスの福音は、このノルウェーにも伝えられました。ノルウェー全土にまで、福音があますことなく、正しく伝えられてきたことを心から神に感謝したいと思います。そしてノルウェーのクリスチャンたちは、イエスの福音を受けいれた後、今度は、彼らがやみと死の谷に住む人々に福音を伝えるようにと召されたのです。今日、ノルウェーのクリスチャンたちが全世界にでて行って福音を伝える番がきたのです。
 もし、私たちが今日、宣教事業のためにもっと努力しないならば、全世界の人々が福音を聞くためには、もう三百年かかるにちがいありません。 

五月11日

 「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようにな
 る。」                      
             ヨハネ7章38     
 「わたしを信じる者は、その人の内から生きた水が川となって流れでる」と言われていますが、あなたはそのとおりでしょうか。
 いや、私の魂は、なえて、乾いていると答えるかもしれません。私のうちには泉もなく、生きた水が川となって流れ出ることもない。
 しかしイエスは言われます。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」(ヨハネ七章三七)。
 そう言われても、私の魂は渇いていないのだ。私の心は世俗的で、この世のことで一杯だ。しかも悪いことに、私はそれをどうすることもできない。
 たしかにそのとおりです。しかし、じつは昔のクリスチャンたちも同じように感じていたことは、つぎの歌からも知ることができます。

 主イエスよ、
 わたしがこれほど冷淡で、
 霊的に死んでいることこそ
 問題なのです。

 神への乾きをこのようにしか表現できないことを認識することは難しいことです。しかし、霊的な現実は、まさにそのとおりであることを知らねばなりません。私たちが朝、食べた食物は、夕方までもちません。すべての生命はそのままではなえてしまうので、絶えず新しくしなければなりません。それは当り前のことです。ですから、この世的で、なんの霊的資格のないままで、イエスのところに行こうではありませんか。このイエスのうちに、すべては満ち満ちているのです。このイエスのところに行けば、あなたと、とりまくすべてのものから、生きた水が川となって流れ出るのです。
 私は、神に仕えることも、人々に仕えることもできていないと、あなたは嘆くかもしれません。しかしそれは間違った考えです。自分が考えているよりもはるかに大きなことができます。それは生けるキリストがあなたの内でなさることです。毎日、けんそんで、真実で、感謝と喜びに溢れるクリスチャンとして生活することは、そのような生活そのものが砂漠のようなこの世にたいする生きた水として川のように流れだしているのです。最大の奉仕は「祈り」です。祈りつつこの世を歩もうではありませんか。そうすれば思いにまさる方法でもの事は変化してゆきます。そして、あなたが天に召されたずっと後で多くの実がみのるのです。

五月12日

 「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの
 父に祈りなさい。そうすれば隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」                      
          マタイ6章6    
 多くのクリスチャンたちは、魂を養うことをいいかげんに考えています。「時間があれば」聖書を読み、お祈りをしようと考えています。サタンは、結局、時間ができないことを見抜いています。
 朝起きると、もう少し寝ていたいなとベッドに横たわっています。そのうちに今日一日のいろんな仕事が思いに浮かんできます。お祈りはもう少しあとにしようと考えます。
 お昼になると、もう仕事が山積しています。その時は、魂を養う必要など念頭から消えてしまっているかもしれません。
 夕方になると、もうすっかり疲れてしまってベッドに入ってしまうので結局祈ることはなくなってしまいます。
 聖書を読んだり祈る時間は自然にでてくるものではありません。祈るためには時間をつくらなければならないのです。日常のスケジュールをやりくりして、そのための時間をつくらねばならないのです。朝は早く起きて、主のみ前に静まって祈るのに十分な時間をとらなければなりません。それによって、一日の仕事と、戦いと、誘惑と、悩みに十分なそなえができるためです。主のみ前に静まって一日を始める人は、一日をしっかりとやり抜く恵みを受けます。それによって、主の平安による安定性を維持することのできる力を与えられます。
 私たちは、身体のために健康維持の必要性を認めています。そのためには規則正しい健康維持に努めます。一日に三度食事をすることを忘れることはありません。
 ところが魂の健康維持についてはどうでしょうか。それをやってみると、自分の内におこる変化に驚きます。祝福された生き生きとした人生を送るためには、何か魔術的な方法は不必要なのです。
 恵みの手段である聖書と祈りを規則正しく単純に用いることは、主が約束された豊かないのちを真剣な魂に供給します。
 すべての霊的ななまけぐせを捨て、神によって定められた聖なる恵みの手段を規則正しく用いて、霊的な魂のためにたしかな栄養を受けようではありませんか。
 パウロも「神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです」(第一コリント一四章三二)と言っています。

五月13日

 「わたしは、高く、聖なる所に住み
 打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にある。」                      
                 イザヤ57章15    
 主は、打ち砕かれて、へりくだった霊の人と共におられます。その人の心の内に住まれます。私たちは自分の住む所を家庭と呼びます。主は、打ち砕かれて、へりくだる霊のうちに、ちょうど家庭にいるようにして、住まれるのです。このような人についてイエスは言われています。「心の貧しい人々は、幸いである」「悲しむ人々は、幸いである」「義に飢え渇く人々は、幸いである」(マタイ五章三、四、六)。
 多くのクリスチャンたちは、この美しい山上の説教のテキストを読んで溜息をつきます。なぜなら、これを読むと良心が痛むからです。彼らの心は義に飢え渇いていません。心は悲しむことなく、冷淡で無関心ですから、神の恵みやあわれみを必要としないのです。
 こうした場合、信仰をもちつづけることは難しいことです。
 しかしここで、もう一度「打ち砕かれて、へりくだる霊」の意味について考え直してみましょう。いったい、心の中で、どんなことが起こっているのでしょうか。
 ある人がガラス瓶を力一杯床に投げつけたとします。ガラス瓶は粉々に砕けました。もう一度、そのガラス瓶にすることは不可能です。
 神が「打ち砕かれた」心と言われているのも同様です。あなたの信仰も、愛も、あなたの悔恨も、悲しみも、あなたの祈りも聖書朗読も、あなたの犠牲も自己否定も、いっさいは打ち砕かれて粉々になりました。そこで呆然として坐っているだけです。すべては絶望的です。
 その時、あなたの心を打ち砕かれたのは神ご自身であることを思い出してください。それは神が心の内に住まれるためです。
 私たちが心砕かれた時、神の恵みを信じるのに最善の方法を神がとられたことを感謝しましょう。心砕くことによってのみ、神は私たちの内に住まれるようになったのです。そして、神は何度もそうなさるのです。

五月14日

 「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けにな
 る。」                      
               ヨハネ14章13    
 今日のテキストでは、祈りの目的が明白に書かれています。すなわち、神のみ名があがめられることです。
 私たちが祈るのは、自分と家族が苦しみと悩みから逃れ、何らかの御利益を受けるためであることが多いのです。そのため、祈りの生活は失望におちいります。多くの成就されない祈りがあまりにも多いからです。
 私たちは祈りを間違って用いています。祈りの本来の目的と反対のことを祈っているのです。「願い求めても与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです」(ヤコブ四章三)。
 もし私たちが神のみ名があがめられることを最終目的として祈るならば、たとえ私たち自身の祈りは弱くささやかであっても、みことばによる強い確かな約束を得るのです。
 あなたは「わたしはそのとおりに祈っています。どんなことでも神に祈っています」と言うかもしれません。「わたしは日常生活のあんまり小さいことまで祈っているのが、どうも間違っているのではないでしょうか」。
 そうです。そのとおりでよいのです。ほんとうは、神との毎日の交わりの中で、もっと単純に祈るべきなのです。「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」(フィリピ四章六)。あなたの日常生活の中で、ささいすぎるために主が祈りを聞かれないような願いは何ひとつないのです。
 そして祈りの最終目的は神のみ名に栄光を帰すことであることをいつもおぼえましょう。大きな願いごとであれ、小さな願いごとであれ、「もしあなたのみ名があがめられるならば、この願いを聞いて助けてください」と祈ろうではありませんか。「しかしもし、み名があがめられないとすれば、このままでけっこうです。そしてこの悩みの中でもあなたに栄光を帰すための力を与えてください」と祈ろうではありませんか。

五月15日

 「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を
 話せるようにしてくださる。」                      
                マルコ7章37    
 このテキストは、救主イエスのなさったすばらしいみわざについて記録しています。
 第一にイエスは耳の聞こえない人を聞こえるようになさいました。これは、私の個人的な信仰生活をふり返ってみても最大の奇蹟であると思われます。ある時、神は、私の耳を開いて聞こえるようにしてくださったのです。私の軽薄な魂が、神のことばを聞いておののくようになったのです。
 私の耳を開いて、惜しみのない恵みの福音を聞いて、心からの感謝の歌を他の救われた人たちと共にうたうようにされました。「神はすべてのよいことをしてくださった。」
 その時からまた、神は同じような奇蹟をなさいました。私たちの耳はまた閉ざされ、律法も福音も聞いても判らず、慣れきった宗教性の中で空虚で不幸な日々を送るようになったのでした。その時、イエスは、かつての日に耳の聞こえない人にされたように、ひとりだけ群集の中から連れ出し、「エッファタ」と力強くおっしゃったのです。その時、もう一度、聞こえるようになり、心は喜びおどりました。「耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる」のです。私たちの耳が聞こえなければ、その間口も利けません。救主イエスにむかって、ひとことも言えません。しかし、主のことばが聞こえるようになると、同時に、話しはじめるのです。もう黙っていることは不可能です。
 このようにして、主イエスは福音の証人たちを起こされます。それは有能な説教者ばかりではありません。ひと前で話すことは下手であっても、日常生活の中でイエスのことについて話さざるを得ない人たちです。
 しかしまた、全く沈黙してしまう人たちがたくさんいます。彼らは、すべてをうまくされるのは主イエスであるということが見えなくなってしまうのです。そうした時、もう一度主ご自身が耳を聞こえるようにし、口を利けるようにしてくださったことを思い出しましょう。そうすれば、再び、語り出し、あかしもせざるを得なくなります。

'08 2/23 **更新”楽しさ・若さ・よろこび

このHPの交わりから投稿された句も更新して
お届けします。
投稿の更新がありました。
みがきが かかってきましたよー

1.年重ね病重ねて生きている。
2.七草もスーパーに並ぶ 今の代は
3.もちつきも一人で出来る機会で
4.忘れ物 祈ってわかる置き場所が
5.猫死んだ 泣いて話せる友ありて
*11.愛猫の 死んでお悔やみ 人並に
*12.少子化に 遊ぶ家庭の 教師来る
*13.雨が降る 猫のお墓に合羽着せ
*14.うちの猫 ねずみに負けたか暮れに死ぬ(12月15日でした)
*15.十二支は猫はだまされ のけ者に
物知りお姉さんならではの→(昔、お釈迦様が動物に集まれと
日を決めて言った。
         ねずみは猫にちがう日を教えたので、
猫は行かなかった
        それから猫は怒ってねずみを
追いかけるんだって) なるほど!

野良猫だった仔を飼い始め、昨12月15日なくなった黒猫ナチのことを偲んで書いてくれました。
1.愛しき猫 充分生きたと 去って逝き
2.よく深く 祈った事も聞き入れられ
3.なき猫は 懐の中 共にいる
4.なき猫は たわむれ遊ぶ 夢の中
5.淋しさに なき猫を呼ぶ 朝に夕
6.長き日と 思いしことも 短かかり
7.一人居も 友に恵まれ にぎやかに
8.苦しみも 悲しきことも 恵みなり
9.さみしさに どうして死んだと 聞いてみる
10.この縁は この世のみとは 思わざり
ナッちゃんのことを思いながら 胸いっぱいになりながら
詠われました。

1.石油高 猫のおつれに 日光浴
2.川柳よみ 言葉遊びと たのしんで
3.千両も 赤き実をつけ 初春を
4.柿送り 身内の友を 慰める 
5・病む猫に 元気で居てねと 話しかけ
6.うちの猫 よそよりきれい 自慢する
7.山々は 赤青黄と 錦着る
8.うまいもの 食べて 寝て居る ネタボッリック
9.消エネも なれればそれで あたりまえ
10.紅葉も 池にうつして 尚映える
11.育てられ親に感謝の 落葉かな

1.しまったあ 転んで気がつく段差あり。
2.年重ね月日たつのが早すぎる。
3.人生を段差でいきて八十二。
4.猫病みて 今日も生きてる 主に感謝。
5.もったいない 捨てずにたまる ごみの山。
6.このごろは 偽装ニュースで明け暮れる。
7.秋深し もみじ色づき 花もよう。


小河氏
☆水仙に鼻の触れれば冷たくて
☆けなげにも凍蝶(いてちょう)の脚葉を捉む
☆底冷や日の陰りたる魚市場
☆路地ゆけば冬日の落つる和田岬
☆冬ざれの鉄塔孤高貫けり
☆滝氷り萌黄色なる光かな
☆昆陽池(こやいけ)に冬鳥が来るきりもなや
☆冬晴や待降節の燭四本
☆クリスマス巡り来咎を纏ふ(まとう)身に
☆吟行日赤で囲みし初暦
☆偶然に出会ひて陳ぶる年始かな
☆雪しまき草木も人も佇みぬ


青木氏句
・猫二匹 喧嘩仲裁 子のように
・初めての 出会い嬉しい われも紅

(めったに目につかない 山野草に会った喜び)と
  (人生で出会う事が出来るのは、少ない人と会えた)
・頑張って頑張りぬいて今の幸
・布団干し 夜の楽しみ 猫さきどり
 猫ちゃんとの句は愛情があふれていますねー
   感謝!!

以上更新句

・人生の泥沼ぬぎて肌白し  (ホント お肌真っ白)


・負担増 夏のさ中にゾーとする
・急病の入院用意置いたまま!
・猫呼べば返事のかわり・おおあくび
・断水で日頃の便利身にしみる
・負担増 古い衣類につぎをあて
・水引草、天に向って角を出し
・鉄塔のあやとり模様秋の空
・サッカーで世界の人がおおはしゃぎ
・梅雨どき、百足も座敷で散歩する

前回分
・猫二匹 先に死ねぬと ストレッチ
・猫殿は家でお上か 刺身食う

・筍の恵みにあやかる 混ぜご飯
・人生の泥沼ぬぎて 肌白し
・さくら草 葉牡丹邸に下宿する
・脳鍛え認知症に俳句よむ
・外帰りうがい薬でイナバウアー

・まな漬はうまいよなあと 粥すする
・すっぱさを香りの包む梅の花
・悲しみも風が持ち去り 櫻咲く
・五十肩 生きてる証し 霜柱
・桃の花 かすみになりて 天空へ

ステキーなお姉さん!!
笑わせてもらいました。
感動しました。

うがい薬でイナバウアーなんて、世の考えも考え直そうかなア!

まだまだ この世で お仕事ありますねー
この方は80歳を超えて お一人住まいです。

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[詩篇を味わう]  119篇を味わいましょう 

〔詩篇一一九篇〕 みことばが光を放つとき

 詩篇一一九篇は詩篇でもっとも長い詩篇ですが、それは、二十二の段落を構成するそれぞれ八つの節が、アレフから始まってタウまでの二十二の文字で統一されているからです。全体で八かける二十二の一七六節からなっており、これを全体を統一する思想で読みとおすことができるかどうかが、この詩篇を味わう鍵になります。

アレフの段落

アシュレー、幸いなことよ。全き道を行く人々。
  主のみおしえによって歩む人々。
アシュレー、幸いなことよ。主のさとしを守り、
  心を尽くして主を尋ね求める人々。
アフ、まことに、彼らは不正を行わず、
  主の道を歩む。
アッター、あなたは堅く守るべき戒めを仰せつけられた。
アハライ、どうか、私の道を堅くしてください。
  あなたのおきてを守るように。
アズ、そうすれば、私はあなたのすべての仰せを見ても
  恥じることがないでしょう。
オーデッカ、私はあなたに感謝します。直ぐな心で、あなたの義を学ぶとき、
エス・フッケッカ、あなたのおきてを私は守ります。どうか私を、見捨てないでください。

 こうして見ると、新改訳の訳文は、できるだけ原文のアレフで始まる文字を生かした良い訳であることがわかります。そして、各節に、トーラー(みおしえ)を言い換えたことばが、一つ、または二つずつ挿入されています。
1節 道、みおしえ(トーラー)
2節 さとし
3節 道
4節 戒め
5節 道、おきて
6節 仰せ
7節 さばき
8節 おきて
1節、2節は、アシュレー(幸いなことよ)で始まっていますので、私たちは、すぐ一篇の「アシュレー」を考えます。一一九篇は、一篇の展開なのです。「詩篇一篇が、詩篇百五十篇全体の導入であるとすれば、『アシュレー』(幸いなことよ)の響きは、詩篇全体の内容にこだましているのです。読み手は、詩篇の信仰生活の絶望や逆境の中での嘆きのことばを読みながらも、心の中で『アシュレー』をこだまさせながら読み進めてゆくのです」(「詩篇を味わうⅠ」、一一頁)。
「アシュレー」は詩篇一篇1節に始まって、二篇12節、三二篇12節、三三篇12節、三四篇8節、四〇篇4節、四一篇1節、六五篇4節、八四篇4512節、九四篇12節、一一二篇1節に用いられ、この一一九篇でクライマックスに達します。なぜなら、詩篇一篇1節で、幸いなことよと呼びかけられた人とは、「その人は主のおしえ(トーラー)」を喜びとし、昼も夜もそのおしえ(トーラー)を口ずさむ」と言われているからです。トーラーを昼も夜も思いめぐらすと、まず詩篇一九篇7―11節の広がりとなり、そうして詩篇一一九篇の壮大なトーラー賛歌に展開するのです。
詩篇一九篇7―9節で、トーラーは、六つのことばに展開します。
〔新改訳〕       〔新共同訳〕 〔岩波訳〕
みおしえ(トーラー)  律法     律法
あかし         定め     定め
戒め          命令     指図
仰せ          戒め     命令
恐れ          畏れ     畏れ
さばき         裁き     法

いくつかの翻訳を比較するだけで、トーラーの意味は多面的であって、翻訳者の考えでその用語は決まっていることがわかります。

一九篇で、六つの用語に訳された「トーラー」は、一一九篇ではさらに四つを加え、「恐れ」を除いては、ほぼ平均して二十回ずつ繰り返して用いられています。
みおしえ(トーラー)、1、18、29節など二十五回。
さとし、2、14、31節など二十二回。
戒め、4、15、27節など二十一回、詩篇のみに用いられる。
仰せ、6、10、21節など二十二回。
恐れ、一一九篇38節に一回のみ。
さばき、20、39、43節など二十三回。
道、1、3、5、14節など十三回。
おきて、5、8、16節など二十二回。
ことば(イームラー)、11、38、41節など十九回。
ことば(ダーバル)、9、16、25節など二十四回。

この十の用語の中で、ただ一回しか出てこない「主への恐れ」については、四篇と一九篇で学びました(「詩篇を味わうⅠ」、五四―五九頁、一五七頁)。

私たちは、詩篇一一九篇が、「アルファベットうた」で、ほかの八篇(九、一〇、二五、三四、三七、一一一、一一二、一四五篇)と同じく「遊び心」で味わってみなければなりません(「詩篇を味わうⅠ」、二九七―三〇二頁)。
第一は、詩篇一篇2節に「まことに、その人は主のトーラーを喜びとし、昼も夜もそのトーラーを口ずさむ」とあるので、まず、トーラー(みおしえ)に焦点を置いて味わってみることです。それもその該当の節を口に出して読んでみるとよいでしょう。


「私にあなたのあわれみを臨ませ、
私を生かしてください。
あなたのトーラーが私の喜びだからです。」(77節)
「どんなにか私は、
あなたのトーラーを愛していることでしょう。
これが一日中、私の思いとなっています。」(97節)
「私はあなたの救いを慕っています。主よ。
あなたのトーラーは私の喜びです。」(174節)
詩篇一篇2節についで、この三節を繰り返して、「口ずさみ」「思いめぐらす」だけで、何か新しい世界が私たちの前に開けてくるではありませんか。
そして、それは、トーラーが、ひとつの巻物のように自分の所有になってしまうのでなく、絶えず、祈りと学びによって、信仰者のたましいを刷新させるからなのです。
「私の目を開いて下さい。
私が、あなたのトーラーのうちにある奇しいことに
目を留めるようにしてください。」(18節)
「私に悟りを与えてください。
私はあなたのトーラーを守り、
心を尽くしてそれを守ります。」(34節)
「主よ。私は、夜には、あなたの御名を思い出し、
また、あなたのトーラーを守っています。」(55節)
「私は、いつもいのちがけでいなければなりません。
しかし私は、あなたのみおしえを忘れません。」(109節)
トーラーを守ることはいのちがけです。高ぶる者は、トーラーを守ろうとする信仰者をあざけり、悪巧みの綱を巻きつけ、穴を掘ります。しかし、逆境の中で、トーラーに従い続ける者は、永遠の義と、豊かな平和にあずかるのです。
こうして、アレフから始まり、タウにいたるまで、十のトーラー用語のさまざまな現れ方に心をとらえられた信仰者は、
「みことばの戸が開くと、光が差し込み、
わきまえのない者に悟りを与えます。」(130節)
を実感します。
 口語訳では、
 「み言葉が開けると光を放って、
 無学な者に知恵を与えます。」
 新共同訳では、
 「御言葉が開かれると光が射し出で
 無知な者にも理解を与えます。」
となっています。
 バルバロ訳は
 「みことばは表れて人を照らし、
 素朴な人々に悟りを与える」
と訳しています。
 
いずれにしても、これは総合的パラレリズムですから、前半の思想内容があって、後半の思想内容が結果として生じるというふうに考えられています。
 これをヘブル語原文に忠実に訳すと、
 「あなたのみことばの扉が光を放つ、
 無学な者は悟りを得ている」
とのパラレリズムであることは明らかです。「あなたのみことば」と、「扉」または「入口」は同格です。それが象徴なのか、たとえなのか、実際何の内容を示しているのかわかりません。問題は、これは総合的パラレリズムであって、後半は前半の結果を表す、とする常識的な解釈をとるか、それとも両者は単なる並行関係にあり、しかも前半と後半の間には連続性と共に深い切断があり、間があり、沈黙があると解釈するかです。もし切断とか間を生かすなら、思い切って後から訳す方法もあるのではないでしょうか。
 「トーラーの専門的知識もない者が悟りを得ている
 (分詞形で状況を示す・・・沈黙。不思議なことだ・・・)
 あなたのみことばの扉が光を放っている(未完了形で繰り返しを示す)」
 私たちは、みことばの扉が開けて、光が差し込む、すると無学な者が悟りを得るというように、すぐ因果関係に筋をとってしまいます。それは正しい解釈であるかもしれません。しかし、段階型とか説明型パラレリズムとふつう考えられているものが、前半と後半に深い「切れ」を持つ思想内容と解釈され直すことによって、新しい意味に変わる可能性を有しています。翻訳者は、原文を訳す時、教理的、心理的、論理的に、よりスムーズな訳語を選ぼうと努力します。「無学な者」が「わきまえのない者」と訳されたり「素朴な人々」と訳されたりしているところを、「ばかが賢くなっている」、「素人読みが博士以上に意味がわかっている」というように逆の読み方をすることにより、新しいトーラーの味わい方ができるのではないでしょうか。トーラーを学べば学ぶほど、信仰者は自分の無学に気づきます。そして、いろんな状況の中で、神の知恵を、恵みによっていただくのです。
 
アーレフ(1―8節)
 「アシュレー」(幸いなことよ)で始まり、一篇2節の思想を展開し、また、一一九篇全体のまとめになっています。

ベース(9―16節)
 若い人に焦点を当てています。ゴスペル調で歌い、若者の歌として味わってみたいものです。

ギメル(17―24節)
 信仰者は旅人です。そこには世俗化の危険や権力者の圧迫があり、そしりやさげすみを受けつつも、みことばによって守られ、生かされるようにとの祈りがあります。

ダーレス(25―32節)
 信仰者は、「ちりに打ち伏す」ような試練を受けています。28節では「悲しみのために涙を流しています」。イエスはゲッセマネで「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」(マルコ一四34)と、言われ、みことばによってささえられました。

ヘー(33―40節)
 日常生活の中で誘惑から守られ、そしりを取り去ってくださるように祈りつつ、積極的に神のみことばへの服従と献身を誓っています。

ワウ(41―48節)
 前半は、そしる者に勝利することができるようにとの祈りであり、後半は、決意と確信が表明されます。

ザイン(49―56節)
 高ぶる者のあざけりや、聖書の教えを捨てる悪者どもの存在は、かえって信仰者の心をトーラーに向けさせ、地上の旅において、神のみことばをますます慕い、思い巡らすようにと導きます。

ヘース(57―64節)
 世の中には悪者がたくさんいますが、一方では、主を恐れ、トーラーを守る人たちもいて、信仰者の励ましとなります。

テース(65―72節)
 この段落では「苦しみ」の持つ意味が明らかにされます。高ぶる者どもが、信仰者の真実な姿が見えなくなるほど中傷しますが、その苦しみを通して、信仰者はますますトーラーを学び、トーラーに信頼するようになります。

ヨード(73―80節)
 前の段落についで、信仰者は、苦しみ悩みの中にいます。しかし、信仰者は、悩みも神から来るということを学び、また一切のものは、神の御手にあり、人間の被造性に思いをこらすようになります(詩篇一三九篇)。

カーフ(81―88節)
 苦しみ、悩みはますます強くなり、自分を「煙の中の皮袋」にたとえるほどでした。天井の窓格子につるした不用の皮袋が、煙とすすでますます黒ずんでゆく様を思い浮かべながら、「あなたのしもべの日数は、どれだけですか」と叫ばずにおれないほどの行き詰まった状況に置かれているのです。それにもかかわらず信仰者は、トーラーを慕い求めます。「私のたましいは、あなたの救いを慕って絶え入るばかりです。私はあなたのみことばを待ち望んでいます」。

ラーメド(89―96節)
 地上では、悩みと、悪者どもの悪巧みはつきませんが、信仰者の心はトーラーによって、神の永遠性と普遍性にまで広がってゆきます。ここには、トーラーが、神のことばとしての永遠性と普遍性を持ち、神と共にあることが強調されています(箴言八22―31)。もはやトーラーは、単なる書物ではなく、永遠から神と共にあり、地を堅く立て、終わりのある被造物と対比せられる普遍性を持ったお方として理解されています。それゆえにどんな悩みに対しても、悪者どもの悪巧みに対しても打ち勝つのです。

メーム(97―104節)
 トーラーのすばらしさが、あらゆる面から描き出されています。
 「どんなにか私は、
 あなたのトーラーを愛していることでしょう。
 これが一日中、私の思いとなっています。」
 詩篇一篇2節の「その人は主のトーラを喜びとし、昼も夜もそのトーラーを口ずさむ」が具体的にどのように展開しているのか、メームの段落で、ひとつのモデルを提供しています。

ヌーン(105―112節)
 「あなたのみことばは、私の足のともしび、
 私の道の光です」。
 信仰者にとってトーラーは、知性や理性で理解し、自分の人生のブループリントを提供してくれるものではなく、夜道を一足一足照らしてくれるたいまつの光のようなものです。信仰者の道には悩みがあります。命の危険が待ち構えています。悪者はわなを仕掛けています。そこには妥協したいという誘惑もあります。信仰者は、これらすべての災いと危険に前もって万全の予防策を持っているわけではありません。しかしトーラーの背後には、これを授けてくださった神がおられ、「口の進んでささげるささげ物」つまり、祈りを受けてくださり、必要な答えを下さるという確信があります(ピリピ四6)。

サーメク(113―120節)
 「二心の者どもを憎む」ことと、「トーラーを愛します」は、反意的パラレリズムであって、信仰者、すなわち、トーラーを守るものは「悪を行う者どもよ。私から離れて行け」と叫ばずにおれません。イエス自身、この精神を持っておられました(マタイ七23)。

アイン(121―128節)
 122節には詩篇一一九篇全体の中でここだけトーラーを表現する用語が用いられていません。信仰者は、神のみが「保証人」(イザヤ三八14、ヨブ一六19)であり、トーラーに優るものであることを表明したかったのかもしれません。あるいは遊びの技巧で、「一回だけトーラーの出てこない節を探してみよ」と謎かけをしているのかもしれません。「今こそ主が事をなさる時です。彼らはあなたのトーラーを破りました」(126節)は、イエスの弟子たちが安息日に、麦畑で、穂を摘んだときに成就しましたが、詩篇一一九篇の記者は、トーラーが破られることによって、主なる神が働かれること、すなわち、文字としてのトーラーが破られることにより、トーラーの本当の精神が表れることを表明しています。

ペー(129―136節)
 トーラーのすばらしさへの賛嘆(129―131節)、罪と虐げの中でもトーラーによって守られるようにとの祈り(132―135節)、トーラーを守らない者たちへの嘆き(136節)と三部に分かれています。

ツァーデー(137―144節)
 139節は詩篇六九篇9節と並んで、イエスの宮きよめにおいて成就しました。「さげすみ」と「苦難と窮乏」の中で、トーラーの正しさと真実は確認され、永遠に義であることを表します。

コーフ(145―152節)
 「主のトーラーを喜びとし、昼も夜もトーラーを口ずさむ」(一2)の「夜もトーラーを口ずさむ」の具体的な展開を145―149節は示しています。151節では、トーラーから遠く離れていて、悪を追い求める者の音がヒタヒタと近づいてくるのを、真夜中に聞いている信仰者の姿が浮かび上がってくるようです。しかし、トーラーを口ずさみ、思い巡らす信仰者は、現実に聞こえてくる悪者の足音よりも、トーラーによって「主よ、あなたは私に近くおられます」と実感するのです。

レーシュ(153―160節)
 「生かしてください」との祈りが、三回繰り返されています(154156159節)。悪者、迫害する者、敵、裏切る者たちは多いですが、それに比例して、信仰者のトーラーへの愛はますます強くなります。

シーン(161―168節)
 「昼も夜もトーラーを口ずさむ」(一2)は「私は日に七度、あなたをほめたたえます」に言い換えられています。この段落では、主に対する直接の訴え、祈願はなく、トーラーに対する信仰者の態度がさまざまの動詞で表明されています。

ターウ(169―176節)
 結びの段落は、トーラーが「叫び」となり、「切なる願い」となり「湧き出る賛美」となり、トーラーを歌うようになることを示しています。それはひびきとして、全世界にこだまするのです。
 最後の「私は、滅びる羊のように、迷い出ました。どうかあなたのしもべを捜し求めてください」という表現は、信仰者にとっては生涯トーラーの必要性がなくなることはないことの真理についての表現かもしれません。また、詩篇一九篇12節の「隠れている罪」についての違った表現かもしれません。また、「私は迷い出ました」で区切って、「たとい私が迷っても」と解釈することもできます。

 詩篇一一九篇では、主(ヤハウェ)が二十四回、呼びかけの主(ヤハウェ)が二十二回用いられています。逆境に置かれ、また、自分の弱さ、罪深さを知る信仰者(Ⅰテモテ一15、パウロの罪人のかしら)は、トーラーを通して、いよいよ神に近づき、神からあふれる恵みを受け、神に感謝と賛美をささげるのです(エペソ五:19、20)。

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